名古屋大空襲を語る中野さん

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中野さゆりさん(88)は大正15年9月13日、美浜町吉原に生まれた。日高高等女学校を卒業後、「女も手に職を持っておいた方がいい」という母シゲノさんの勧めもあり、学校教諭を目指し昭和18年、海南の和歌山師範学校に進学した。

 20年、日本軍は南方での玉砕が相次ぎ、米軍による本格的な本土空襲が始まった。その年の1月、中野さんや同級生らは卒業を前に、学徒動員で三重県四日市市にある海軍の燃料廠への配属を命じられた。燃料廠での作業は体の大きさで分けられ、小柄だった中野さんは、頭上を流れる硫酸の流れ具合を調節する作業に就いた。硫酸が顔などにつかないようほっかむりをして従事。毎日朝6時から夕方6時まで、休みなく働かされた。「命じられるのは作業内容だけ。秘密兵器を作っていたらしいですが、何を作っているのか、また自分たちの作業が何のためなのかまったく教えてもらえませんでした。体格によってはドラム缶の洗浄やフラスコのようなものを膨らませる仕事もありましたが、他の子もやはり何のための仕事なのかは教えてもらえなかったようです」と話す。また「毎朝、海軍体操と雪の中を走らされるのがつらかったですが、食事はよく白いご飯を食べさせてもらいました」と振り返る。    


 昭和20年3月、米軍は名古屋に対し大規模な空襲を始めた。空襲は7月まで63回行われ、延べ2579機のB29が来襲し、被害は死者7858人、負傷者1万378人、被災家屋は13万5416棟に上り、名古屋の市街地は壊滅的な被害を受けた。

 大空襲は名古屋から約35㌔離れた四日市からも確認することができた。「名古屋の上空にたくさんのB29があり、そこに体当たりする日本の飛行機が見えました。キリキリキリと回転しながら墜落していく飛行機も見えました」と話す。B29は四日市の上空にも飛来。「ゴーゴーと空から大きな音が聞こえてきて、みんなで防空壕に隠れました。音が怖かったので、アコーディオンで音楽を奏で歌をうたってしのぎました。結局、その日は天候が悪かったせいか爆弾は落とされませんでしたが、もし天気がよければ...」と壕のなかで震えた体験を振り返る。

 卒業が決まった中野さんは、3月14日の大阪大空襲で鉄道が使えなくなる前に海南に戻ることができ、学徒動員で見送ってくれる下級生らがいないなか、卒業式を終えた。

 四日市では中野さんらが去った3カ月後となる6月から8月にかけて米軍の空襲を受け、海軍燃料廠をはじめとする工場群は壊滅的被害を受けた。

三菱軽合金工業御坊工場の側壁跡

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終戦の年となる昭和20年、米軍は日本の本土各地に激しい空襲を行った。その非人道な無差別爆撃は8月15日の終戦当日まで続き、全国で200以上の都市が被災し、被災人口は970万人に及んだ。軍需工場があった御坊市や美浜町もその対象となった。

 和歌山師範学校を卒業した中野さんは、同年4月、御坊の塩屋小学校に赴任。毎日、吉原の自宅から50分かけて歩いて学校に通った。赴任して約3カ月後の6月22日、米軍のB29が御坊市や美浜町の軍需工場を狙って空襲を行った。美浜町の松林に爆弾が落とされた午前9時か10時ごろ、小学校にいた中野さんは他の教員らとともに2階の窓から状況を見守っていた。炎上する松林を見た校長から「家の様子を見てくるように」といわれ、自転車を貸してもらい、急いで吉原の自宅へ向かった。天田橋に差し掛かったころ、上空に飛来したB29が爆弾を投下した。「あれはナスビのような形をしていて、3つ落としていきました」。爆弾は近くにあった狼煙山(のろしやま)に着弾。危険を感じた中野さんは御坊市街地へ向かうのを避けたが、冷静な判断を失い、標的になる可能性が高い名屋の軍需工場方面へ向かった。三菱軽合金工業御坊工場(元日の出紡績)と、西川の間の細い通路を必死で逃げているとき、ゴーッと大きな音を立てながら1機の米軍航空機が急降下し爆弾を投下。とたんに辺りは激しい爆音と爆風に包まれた。中野さんは急いで自転車から降り、教えられていた通り、両手の親指を耳に入れ口を開き、衝撃に備えた。「ものすごい爆風と爆音で、胃や腸が体の中でかき回され飛び出しそうな勢いで、破片も頭にたくさん落ちてきました。とても生きた心地はしませんでした。爆弾は工場を外したようでしたが、もし工場に落ちていたら私の命も危なかったかもしれません」と振り返る。自宅で母親の無事を確かめた後、再び学校へ戻ったが、学校では地獄のような光景が広がっていた。

 中野さんが天田橋で見た爆弾は、狼煙山で壕作りのため木を切っていた兵隊たちに直撃。被爆した兵隊は学校に次々運ばれ、教室には顔や腕、足、腹などを負傷した多数の兵隊がうめき声を上げながら横たわっていた。中野さんら女性教諭は、負傷者の体にハエがたかってウジ虫がわかないようにと、ひたすらうちわであおぐよう命じられた。「兵隊の中には亡くなった人も多かった。しかし、当時は被害を受けたことは一切報じられず、このことも学校や周辺の人しか知らなかったと思います。この日まで警戒警報が鳴ってもあまり危機感を持っていませんでしたが、空襲の怖さを実感させられました」と話す。

 8月15日の終戦を境に学校教育も大きく変わった。「2学期の始まりとともに、これまで『国のために命をささげる』という流れから、『命は大切に』と、ころっと変わりました。教科書も戦争に関することが書いているところを墨で消す作業から始まりました。子どもたちにはそんなに戸惑っている様子はありませんでした」。終戦は物資の配給にも大きな影響を与えた。「国の統制がなくなったことで、少ないながらも配給されていた食料などが配られなくなりました。学校で、子どもたちに芋の飴を作ってあげるととても喜ばれ、みんな『あめちょーだい』と集まってきました」と戦後の食糧難時代を思い出す。

 70年前の戦争を振り返り「戦争は人を殺すし、苦しい生活を強いるので絶対にやってはいけない。あのころは命令が絶対で意見も言えなかった。それに比べるといまは天国のようです」と、平和のありがたみを実感している。