昭和20年7月28日、由良湾で米軍機の攻撃を受けて炎上、99人の犠牲者が出た第30号海防艦の戦闘から70年を迎えた28日、同艦の元乗組員大野一富さん(87)=寝屋川市仁和寺本町=が由良町を訪れ、戦闘現場近くの戦死者供養塔の前で亡くなった戦友に鎮魂の祈りをささげた。海防艦の調査を通じて知り合った同町大引の中西忠さん(83)、供養塔の清掃等を続けている糸谷の阪元昭良さん(80)らが同席。大野さんと中西さんは海上自衛隊由良基地分遣隊の慰霊式典にも参加した。
 日本海軍の対潜・対空護衛艦、第30号海防艦は由良町糸谷の由良湾に停泊していた昭和20年7月28日朝、米軍機動部隊艦載機の攻撃を受け、午後にまでおよぶ戦闘で艦は炎上、深夜になって沈没した。日高地方では最大、県内でも屈指の激戦となったこの戦いにより、楠見直俊艦長以下99人が戦死した。
 大野さんは第30号海防艦の元艦長銃兵で、7月11日のP51ムスタングの編隊との戦闘で負傷。襲来した8機のうち2機は海防艦が撃墜したが、海防艦側は12人が戦死し、大野さんは左足首を機銃が貫通、全身19カ所を負傷して艦から離脱。西宮の海軍病院に入院、療養先の有馬温泉で終戦を迎えた。
 海防艦は17日後の28日の戦闘で炎上、沈没。供養塔のそばにある戦死者名を刻んだ石碑にその名はないが、大野さんが負傷した11日の戦闘では松弥四郎艦長も負傷、のちに死亡しており、28日に戦死した楠見艦長は着任後すぐに亡くなったことになる。
 今回は、第30号海防艦の調査をライフワークとする中西さんと、28日の戦闘直前、艦内で遊んでいたという阪元さんが大野さんと初対面。大野さんは趣味で作るラジコン飛行機(P51ムスタング)を持参、中西さんにプレゼントし、「自分の命を狙った敵の飛行機(の模型)が好きというのもおかしな話ですが、私はこれに撃たれ、負傷したおかげで、命が助かったんです」と笑顔。あの戦闘から70年が過ぎ、穏やかな由良湾を眺めながら、「元乗組員でいまも生きているのは私を含めて2人だけ。息子にはいつも、『俺が死んだら、遺骨はこの海にまいてくれ』っていってるんです」。心はいまも自分をかわいがってくれた松艦長や戦友と一緒だという。