昭和18年8月15日の16歳の誕生日に海軍佐世保第二海兵団に入団

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 昭和20年7月28日朝、日高郡白崎村(現由良町)糸谷の由良湾に停泊していた日本海軍の対潜・対空護衛艦、第30号海防艦が米軍機動部隊艦載機の攻撃を受け、午後にまで及ぶ戦闘で艦は炎上、深夜に沈没した。日高地方では最大、県内でも屈指の大激戦となったこの戦いにより、海防艦側は99人が犠牲となった。

 糸谷は高さ263㍍の重山(かさねやま)に隠れる静かな風待ち港で、この月、湾内には2隻の海防艦(30号と91号)が停泊。10日午後には30号がP51ムスタング戦闘機の襲撃を受け、12人が戦死した。このとき、機銃で応戦した元二等兵曹大野一富さん(86)は頭や上半身など全身18カ所を負傷。仲間に助けられて西宮の海軍病院(のちの甲子園ホテル、現在は甲子園会館)に入院、療養先の有馬温泉で終戦を迎えた。

 大野さんは現在、寝屋川市の淀川を見下ろすマンションに1人暮らし。出身は高知県北部の高岡郡仁淀村(現吾川郡仁淀川町)で、昭和2年8月15日、元陸軍騎兵隊の父正一(まさかず)さんの長男として生まれた。18年10月、16歳で海軍佐世保第二海兵団に入隊。「子どものころから飛行機が好きでね。海軍へ入る前は千葉の飛行学校でグライダーにも乗ってたんですが、軍の飛行士試験は身長の基準(163㌢以上)があって、自分は1㌢足りなかったんです」。飛行機乗りの夢が破れ、日露戦争の旅順攻囲戦で武勲を立て、金鵄勲章を受けた祖父弥益(やます)さんの勧めもあって海兵団を志願した。

 19年1月には装甲巡洋艦常盤への乗り組みを命じられ、3月22日まで太平洋方面への戦務に従事。その後、5月までは横須賀の砲術学校に入り、6月14日付で第30号海防艦の艤装員となり、26日付で正式に乗り組み命令を受けた。艦は呉防備戦隊、第四海上護衛隊を経て、20年5月に大阪警備府防備隊に編入された。

 大野さんが乗り組む第30号海防艦は20年1月、台湾の基隆(キールン)から鹿児島まで船団を護送中、敵潜水艦の魚雷が左舷艦首に命中し、乗組員5人が死亡した。艦は前の4分の1ほどがちぎれたが、4本の魚雷攻撃をかわしながら、ほうほうの体で沖縄の那覇へ避難。那覇には大きなドックも資材もなく、地元の大工がかき集めた木材で応急処置を行った。2月下旬になんとか動けるようになり、鹿児島、佐世保を経由して朝鮮の釜山に入り、朝鮮重工業で本格的な修理が行われた。

 このころ、太平洋上の米艦隊はじわじわと日本列島に接近。2月には空母機動部隊による初の本土空襲が始まり、艦載機の編隊が次々と沖合から姿を現した。大野さんの海防艦も那覇で仮修理中に攻撃を受け、乗組員2人が死亡。大野さんは「グラマンF6が900機の大編隊で飛んできたこともありました。あのときは水平線が真っ黒になりましたよ」と振り返る。自分が乗る海防艦は冗談のような大工による修理。総力戦の圧倒的な物量の差、戦闘機の性能の違いを見せつけられ、背筋がゾッとしたのを覚えているという。

 釜山で修理を終えた第30号海防艦は5月10日、大阪警備府海面防備隊に編入され、由良町の紀伊防備隊に所属し、潮岬、紀伊水道の防衛に当たった。艦には楠見直俊艦長以下185人が乗り組み、17歳の大野さんは艦長銃兵として平時は常に楠見艦長と行動をともにし、艦長の軍服のアイロンがけなど身の回りの世話のほか、夜になればカバン持ちとして料亭にも一緒に出入りした。「艦では上官にもかわいがられました。楠見艦長が来ない時間に預かっていた鍵でこっそり艦長室に入り、机の中から高級煙草を失敬したこともありましたよ」という。

大好きな模型飛行機に囲まれ、「いまは幸せな毎日です」と大野さん(寝屋川市の自宅で)



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 大野さんの記憶によると、7月9日、爆撃機のB24数機が由良湾を低空で偵察飛行した際、遠ざかっていく敵機に向かって、海防艦が高角砲を放った。しかし、砲弾は敵機まで届かず、最後尾の機の後方で爆発。これがのちに「運命の一発」ともいわれるやぶへびの攻撃となり、あの一発を撃ったために、敵に海防艦の存在がバレてしまった。翌10日午後には最新鋭の戦闘機、P51ムスタング3機が飛来した。
  「全員、戦闘配置につけ」。航海長の号令を受け、25㍉単装機銃の射手だった大野さんも2人の部下とともに配置についた。由良に来てからは初めての戦闘。1機目が突っ込んでくる。「撃て~」。2門の高角砲、14門の機銃が一斉に火を噴いた。大野さんの目の前、一段低い位置の射手池留さんが振り返り、声は聞こえないが、満面の笑みで「大野、やったぞ」と何度も拳を突き上げた。と次の瞬間、2機目の機銃が池留さんの体を撃ち抜いた。あっけなく即死。彼はこれが初めての実戦だった。
  海防艦の機銃は1分間に25発。これに対し、ムスタングは1分間に60発と2倍以上、さらに両翼に計4門を備えている。これが真っ先に狙うのは、甲板中央に高く突き出た司令塔の艦橋で、大野さんはこの艦橋の目の前の機銃を任されていた。雨のように降り注ぐ銃弾から身を守りながら、体に直接の被弾はなくても、鉄板にはね返った弾や鉄くずが頭や体をかすめる。深く切れた頭からは血が噴き出し、額をつたって目に入り、ぬぐってもぬぐっても前が見えない。そうこうしているうち、左の足首を機銃弾が貫通した。
  「このままでは死ぬ...」。大野さんは2㍍ほど下の甲板に飛び降り、這うようにして医務室へたどり着いた。中に入ると、衛生兵が死んでいた。薬品棚にあった殺菌液のビンを叩き割って頭からかぶり、応急処置をして再び甲板に戻った。しかし、大野さんは意識がもうろう、そのまま気を失いかけた瞬間、「大野」と叫ぶ声が聞こえた。同じ高知出身の上等兵曹が駆け寄ってきて、脱出用のボートで助け出された。
  この戦いでは、大野さんが見た3機のほかに5機のムスタングが襲来、うち2機は海防艦が撃墜したが、海防艦は12人が戦死、大野さんら二十数人が負傷した。第30号海防艦はこの18日後、グラマン編隊との激闘の末、沈没した。
 大野さんは戦後、ジャズドラマーや俳優として一時は芸能界で活躍したこともあったが、昭和33年に大阪で襖職人として事業を起こし、成功した。また、昭和40年代には日本でもブームとなり、長男が好きだった「Uコン」と呼ばれるエンジンつき模型飛行機のオリジナル「シカゴ」を設計・開発し、プラモデルメーカーの商品化で大ヒット。いまも模型飛行機作りは趣味の1つで、家にはかつて自分の命を奪いかけたP51の模型もある。「大野さん、こんなものがよく好きになれますねと笑われるんですが、私はもともと飛行機が好きで、ジャズ発祥のアメリカが大好きだったんです」と笑う。
  戦後は生き残った戦友とともに毎年、7月28日の海防艦慰霊式典に合わせて由良を訪れた。しかし、その仲間もおととしには3人にまで減り、昨年は2人になってしまった。復員してからも裸一貫、愛する家族を守るために戦い続けてきた大野さん。妻はすでに他界したが、4人の孫と1人のひ孫、そして大好きな模型飛行機に囲まれ、「いまの子どもはこんなおもちゃは見向きもしないでしょうが、もう一度、Uコンブームが巻き起こることを夢見ています」とにっこり。69回目の終戦の日のきょう、87歳の誕生日を迎えた。    
 (おわり)
 
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 この連載は、玉井圭、片山善男、小森昌宏、山城一聖が担当しました。