大和の大きさを語る坂下さん

戦争2人目①.jpg

 坂下栄次郎さんは大正13年1月2日、日高郡切目村(現在の印南町西ノ地)に生まれ、切目尋常小学校を出て同高等小学校で2年学んだあと、家業の漁業に就いた。昭和14年、国は国家総動員法に基づき、戦時下の重要産業の労働力を確保するため強制的に人員を徴用できる「国民徴用令」を公布。16年3月、17歳の坂下さんにも徴用令が届いた。田辺で検査を受け、近くの切目王子で必勝祈願を受けた後、同月31日、御坊市内へ一時集まり、広島県呉市の呉海軍工廠へ向かった。「村人みんなに旗を振って見送ってもらいました。途中の天王寺駅では2人の姉が見送りにきてくれたのがうれしかったことを覚えています」と話す。

 坂下さんは呉工廠の総務課に配属。港には戦艦や駆逐艦、掃海艇など多くの船舶が修理に寄港し、漁師をしていた腕を買われ、船舶をドックまで引っ張る曳船(えいせん)に乗ったほか、工廠内で部品などを積んで走る汽車の線路の切り替えなども行った。

 当時の呉工廠には、同年12月に就役する大日本帝国史上最大の戦艦「大和」が停泊していた。全長263㍍、全幅38・9㍍、排水量6万4000㌧(基準)、45口径の巨大な大砲9門を搭載。坂下さんもその巨大な姿を目の当たりにした。「大和は周囲を大きな壁に覆われた秘密ドックで建造されていたため、一般の人は見ることができなかったが、私たちは中に入ることができました。初めて見たときはその大きさに驚きました。頼もしい船ができた。この船さえあれば日本は勝てると思いました」。 呉工廠では大和の建造だけでなく、修理に来る多くの船について口外することは許されず、「下手なことを聞くとスパイ容疑をかけられるので、多くの船が修理に来ましたが、どこから来たのか、どこをやられたのかなど、ほとんどわかりませんでした。重巡洋艦の『青葉』『羽黒』が修理に来ていたことを覚えています」と振り返る。

 戦時中、日本では20歳に達した男子は誰もが徴兵検査を受けることが義務付けられ、検査に合格した人は各連隊に入隊することになる。また、17歳からは志願も可能となっていて、坂下さんは徴用で呉に来て約3年が経った18年末、20歳の誕生日を前に海軍への入隊を志願した。「海生まれ、海育ちだったので海軍にいきたかった。いずれにせよいつか徴兵令が届くので、父親に黙って志願しました」と話す。19年5月、入隊が決まり坂下さんは水兵となった。


大竹海兵団で撮影(後列左から4人目が坂下さん)

戦争2人目②.jpg

 入隊が決まり水兵となった坂下さんは、19年5月、山口県大竹市の大竹海兵団で新兵訓練を受けることになった。手旗信号など水兵としての基礎を学んだあと、上官に気に入られていたこともあって、故郷和歌山の由良町にある紀伊防備隊に配属となった。由良では掃海艇の掃除や防空壕掘りに明け暮れた。「横浜(里地内)の食堂を経営していたのが印南の人で、切目の実家に連絡して兄弟を呼んでくれました。見つかったら怒られるので隠れて会いましたね」と懐かしむ。

 由良での任務は1カ月ほどで、すぐに和歌山市加太の友ケ島へ移動。現在も砲台跡などが残る紀伊水道への敵の侵入を防ぐ軍事要塞で見張りを中心とした任務だったが、しばらくして再び由良に戻るよう指示を受けたあと、水雷の整備を学ぶよう命じられ、横須賀にあった海軍水雷学校に入った。「学校では新兵も上官も同じように学んだ。上官が気に入らないことをすると授業のあと呼び出されて殴られることもありました。学校でも殴られますが、海軍は顔ではなく尻ばかり殴られました」と振り返る。山口県の基地へ配属され、大分県日出町にあった基地に転属。そこで終戦を迎えることになるが、それまで敵の攻撃などを受けたことがない坂下さんにとって初めて、戦争の恐ろしさを目の当たりにする出来事が起こった。

 日出町の基地では水雷艇の整備を担当していたが、ある日、破損した空母が流れ着いた。空母の名は「海鷹(かいよう)」。もともと大阪商船所属の「あるぜんちな丸」という客船だったが、17年に徴用、空母に改造された。全長166・55㍍、排水量1万3600㌧。艦上戦闘機18機、艦上攻撃機6機の合計24機が搭載可能。任務は後方での航空機輸送や船団護衛で、サイパン島、シンガポールで活躍したあと、20年3月、呉軍港空襲で損傷。以降、艦載機不足や燃料が枯渇してきた上に制海権が連合国軍に握られたこともあり、瀬戸内海において特攻兵器の訓練標的艦になるが、7月24日、四国佐田岬沖で米軍が敷設した機雷に接触して航行不能となり、日出町へ流れ着いた。海鷹にはまだ利用できるエンジンが積まれていたため、坂下さんらは取り外し作業に動員された。

 海鷹での作業中、頭上に米軍の艦載機約30機が飛来し、海鷹目がけて爆弾を投下してきた。坂下さんらは急いで船内へ避難。「何発も爆弾を落とされ、甲板では機銃掃射があり、激しい爆音が鳴り響き、船体は大きく揺れた。数分の出来事だったが、とても生きた心地がしなかった。私は船首にいましたが、船尾では8人ほど亡くなりました」。米軍機は近くにあった大分市の大分海軍航空隊が目標とみられ、海鷹へはそれ以上の攻撃はなかった。「海鷹は、敵に見つからないように木や葉っぱをかぶせていたが、とても隠せるような感じではなく、上空の艦載機からは丸見えだったようで、米軍パイロットたちは笑っていました。中には女性パイロットもいたそうです」と振り返る。海鷹はその後、破棄され、終戦後解体された。

 終戦の8月15日、坂下さんは日出の基地にいた。「当時は負けるとは思わず、悔しかった。ただ、いま考えると港で働いていた時、新聞で華々しい戦果をあげていた艦はほとんど戻ってこなかった。戻ってくるのは船首がなくなっていたり、大破して無残な姿になった艦ばかり。誰も口には出さなかったが、負けることがわかっていたのかもしれません」。90歳となったいま、爆撃を受けた時の恐ろしさを思い返しながら、「戦争はすべての人を苦しませる。もう絶対にしてはいけない」と、切に平和を願っている。