ビルマで買ったかばんを手に前田さん

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 「死の鉄道」「枕木一本、死者一人」――。戦時中、日本軍がタイ(泰)とビルマ(緬甸、現在のミャンマー)を結ぶ物資の輸送ルートとして建設した「泰緬(たいめん)鉄道」。過酷な労働環境で連合軍捕虜や現地労働者ら多くの犠牲をはらい、日本兵も命を落としたこの鉄道建設に、日高川町三十木の前田進さん(94)が携わっていた。

 前田さんは、旧川中村上田原の農家の生まれ。7人きょうだいの下から2番目。幼くして母おこうさんを亡くしていた前田さんは、近くにあった母の実家で過ごすことが多かった。通っていた子十浦尋常小学校の高等科卒業まであと3カ月と迫ったころ、父七兵衛さんがチフスを発症。それからというもの、来る日も来る日も、家には石灰がまかれ、前田さんは村人に避けられるようになり、すれ違う人すべてに口と鼻を押さえられた。このことで退学を余儀なくされ、大工の道を志すことに。夜間は青年学校で教育を受けながら、同じ上田原の大工辻本勝清さんの下で修行の日々を過ごした。

 昭和16年2月、二十歳になっていた前田さんは陸軍に入隊、翌月に南方軍直轄の鉄道第5連隊第1中隊に配属となった。大阪港から訓練地の中国に向かうことになり、汽笛とともに船が港を離れた瞬間、「お国のために」と気が引き締まった一方、「再び日本に帰ってこれるかどうか分からない」と涙がこぼれた。中国広東省で半年間にわたる軍事訓練を積んで、ビルマへ。翌年3月、首都のラングーン(現在のヤンゴン)に到着した。

 鉄道はタイのバンコク西のノンプラドックからビルマ南部のタンビューザヤットまで419㌔を結ぶ陸路。日本軍はこの年の6月、ミッドウェー海戦で大敗したのを機に鉄道建設を決定した。制海権の後退に伴い、ビルマ戦線の日本軍に物資を輸送していたシンガポール、マレー海峡経由の海上輸送ルートは危険が大きくなり、ビルマ戦線への物資輸送ルートを確保するための解決策だった。開通すればシンガポールからビルマ各地への鉄道による軍需物資補給ラインが完成する。6月にノンプラドック、10月にはタンビューザヤットから建設がスタート。建設作業員は、前田さんら日本軍1万2000人、連合国捕虜6万2000人、タイ、ビルマの現地労働者約20万人、マレーシア人、インドネシア人らの労働者12万5000人だった。

 前田さんの仕事は橋の架設工事が中心。タンズンやタンビューザヤットなどビルマ各地で橋の建設に精を出した。軍からは早期完成を求められ、猛暑やスコールと戦いながらの作業。どの現場も劣悪な環境で、食糧不足からくる栄養失調のためコレラやマラリアなど伝染病もまん延した。そんな環境のなか、前田さんは上官から「水たまりの水は絶対に飲むな」といわれていたが、ボウフラがいる水たまりを見つけては、「ばい菌のない証拠」とカラカラののどを潤した。捕虜やアジア人労働者ら多大な犠牲(死者は数万人といわれる)を出し、計画当初で5、6年はかかるとみられていた鉄道は、驚異的なスピードで翌18年10月に完成した。

当時、泰緬鉄道で走っていたとされる蒸気機関車

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 泰緬(たいめん)鉄道の完成後も、常に任務には危険が付きまとった。連合国軍は鉄道の輸送を止めようと、爆撃機で執拗に鉄道を空爆。前田さんはタイとビルマの両国で、繰り返し破壊される橋の復旧に当たった。昼間は敵機に見つからぬよう身を隠して作業に当たり、夜は橋や線路が破壊されていないか見回る日々。ある夜、ビルマで歩兵とともに線路を見回っていると、後方からとてつもなく大きな爆音が響き、前田さんは爆風で吹き飛ばされた。幸い大きなケガはなかったが、真っ暗闇のなか爆音の方に近づくと、歩兵が血まみれで倒れ、すでに息絶えていた。枕木の下に仕掛けられていた地雷を踏んだのだ。前田さんは「私もおそらく踏んでいたのだが、その歩兵と比べ体格が小さく、武器は銃1丁と軽装で軽かったため地雷が作動しなかった」と、間一髪で死を逃れた恐怖の瞬間を振り返った。また、前田さんら30人の鉄道隊が現場へ向かっていたところ、アメリカ軍と遭遇。不幸にも歩兵隊の到着が遅れていた。前田さんは敵軍の多さに「これはあかん、もう駄目だ」と死を覚悟。激しい銃撃を受けたが、早期撤退のおかげで危うく難を逃れた。これらの復旧工事のほかにも信号の修繕や汽車の運転、駅長などの鉄道に関する任務を危険な状況の中でこなした。

 20年8月15日。ビルマにいた前田さんは敵機から巻かれたビラを読み、日本の敗戦を知った。信じられなかった。その後、連合国軍にタイで線路や機関車の修理などの作業を強いられた。「本当に厳しかった。働かされっぱなしだった」。日本に帰ることができたのは翌21年11月だった。

 前田さんは復員後、まず御坊市に嫁いでいた姉のアヤノさんと再会した。幼くして母を亡くした前田さんにとって母親のような存在。アヤノさんは顔を合わせた瞬間、前田さんのほおをつねって「キツネやないよね。やっぱり進よね」と涙を流しながら強く抱きしめてくれた。「あんなにうれしかったことはなかった」。実家の上田原に戻ると、生還した二男の 鄕(かきょう)さんら家族と再会できた。しかし、海軍に入隊した大工の師匠辻本さんは戦死していた。その後前田さんは大工となり、数年後に船着村三十木のとみ子さん(87)と結婚。とみ子さんの実家近くに自身の手で家を建て、3人の子どもに恵まれた。83歳まで現役で活躍した。

 ビルマでの最後の任務の際、上官の命令で軍事手帳や認識票、千人針など戦時中の大事なものは、ほとんどすべて防空壕に残してきた。ただ一つ、ビルマで買った革のかばんだけが今も手元に残っている。前田さんとともにビルマとタイの両国で戦場を駆け抜けた、いわば〝戦友〟。その中には、記憶をたどって自身の歩みを書き記した軍事手帳代わりの帳面が大切にしまわれている。

 前田さんはそのかばんを手に、「当時は上官の命令は絶対で、何一つ逆らえず、従うしかなかった。そんな戦争は多くの犠牲を生んだ。この小さな三十木地区でも7人が命を落とし、大事な友達も知人も亡くしてしまった。日本は本当にえらい(とんでもない)ことをやった。平和な現代はけっこうな世の中。今後もこの幸せな日々が続くよう、絶対に戦争なんてしないよう後世の人たちにお願いしたい」と祈るように話している。