終戦後、茨城県で仲間と(左から2人目が楠谷さん)

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 みなべ町滝、楠谷喜一さん(89)は地元高城地区の城西尋常高等小学校を卒業し、昭和18年ごろ、徴用で広島県呉の海軍工廠(かいぐんこうしょう)で働き始めた。呉海軍工廠といえば当時東洋一と呼ばれるほどの充実した設備を導入し、あの戦艦大和を建造したことでも有名。楠谷さんが働いていたのはこの中の砲身工場で、戦艦などに搭載する大砲の筒を造るのが仕事。砲身の形をした鉄の塊が運ばれてきて、機械を使って中をくり抜く作業に明け暮れていた。港に大和が停泊しているのを目の当たりにしたこともあり、あまりの大きさに驚いたという。そのころから「早く兵隊になりたい」と強い思いを持っており、「国のために死ぬのが当たり前と思っていました」。そんな志を持っていた青年に、徴兵検査の命令が出たのは1年余り働いたあとの昭和19年10月。同年3月から始まったインパール作戦で歴史的敗北を喫するなど、戦局はますます悪化してきたころだった。呉で徴兵検査を受け、結果は甲種合格。「満州直送」、楠谷さんらは新兵訓練のため、合格してすぐの10月26日、満州に送られることになった。


 下関から福岡県に渡り、門司港から輸送船で一路満州へ。到着したのは満州の北の端ハイラル、冬になると湖も凍る極寒の地。所属は陸軍満州第6052部隊のなかの楠中隊長率いる楠隊(くすのきたい)。総勢200人の中隊だった。昼間は雪は降らなかったが、朝起きると白銀の世界という厳しい環境の中で連日、訓練に明け暮れた。「毎日人を殺すための訓練をするんですよ。1人がミスをすると当然連帯責任で、総ビンタ。訓練中はよく殴られました」。ただでさえ厳しい訓練、寒さがさらに追い打ちをかけた。真冬には一面凍った黒竜江で演習を行ったこともある。「厚い氷の上を腹這いになって進むんです。冷たいのなんの、冷えて腹が痛くなったのを思い出します」。演習の合間、分厚く張った氷につるはしで穴を空けると勢いよく水が噴き上がり、一緒にたくさんの魚が氷の上に跳ね、小休止のときに焼いて食べたのが数少ない楽しい思い出となっている。

 特につらかったのは夜間訓練。身を切る寒さの中、トラックを戦車に見立て、下に潜り込んで爆弾を差し込むのを何度も繰り返した。朝は率先して使役をこなした。冷え込む朝一番、ペチカ(ロシアの暖炉)に火をつけるための石炭を取りに行く係で、各隊から数人ずつ割り当てられており、楠谷さんはいつも手を挙げて買って出た。「みんなやりたがらない仕事ですが、誰かがやらねばなりません。おかげで上級兵からはかわいがってもらいました」。訓練の7カ月間はあっという間に過ぎ、20年5月、内地に戻ることになった。楠隊に与えられた任務は鹿島灘から九十九里浜にかけての陣地構築。本土決戦に備えた重要な任務だ。朝鮮半島の北東端に位置する羅津(らしん)から輸送船に乗り込んだ。敵に見つからないよう蛇行しながら3、4日かけてようやく舞鶴港にたどり着き、茨城県へと向かった。


「多くの犠牲で今の日本がある」と楠谷さん

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 陣地構築は、アメリカ軍を中心とする連合国軍の本土上陸を想定。実際、連合軍は本土上陸作戦を計画していた。昭和20年8月、日本がポツダム宣言を受諾したため本土決戦が行われることはなかったが、当時、日本軍は来るべき時に備え、上陸してくるであろう地域の一つとして九十九里浜や鹿島灘、相模灘などの海岸線の防衛に兵力を注いでいった。


 楠谷さんは茨城県南部の土浦、鉾田、柿岡などの地域を渡り歩き、海岸の砂浜に陣地を築く任務に明け暮れた。陣地といっても砂浜に一人が入れるほどの穴を掘り、回りに土嚢(どのう)を積んでいく簡素なもの。作業は大変だったが、満州での新兵訓練のときのように上級兵から鉄拳が飛ぶことはなく、地元の住民も食べ物などをしょっちゅう差し入れてくれて、毎日の生活は比較的穏やかだった。「わたしたちは内地に戻りましたが、一緒に訓練していたほかの中隊は外地にいった人もたくさんいます。茨城県の地元の人にはよくしてもらったし、私たちは恵まれていました。それにね、いつ死んでも怖くないと思って毎日を過ごしていましたから、気楽でしたよ」と笑う。そんな楠隊にも悲劇は訪れた。

 戦争末期、いつものように砂浜で陣地を構築していたとき、上空から突然敵機が現れたかと思うと、低空飛行で機銃掃射してきた。隠れる場所もない砂浜で、撃たれた仲間の叫び声、倒れてぴくりとも動かない者、機銃の弾で砂が吹き上がり、楠谷さんも口の中は砂だらけ、目に入っても開けることができず、「次は俺の番か、この弾か、次の弾か」と、さすがに死を覚悟した。しばらくして敵機は飛び去り、楠谷さんは幸い無傷だった。「機銃掃射は弾が雨のように降ってきました。多くの仲間が死にました。仲のよかった戦友の死は言葉でいえないほど辛いもんですよ」。戦友の遺骨を大阪の実家へ届けにいくと、母親が涙を流しながら「ご苦労様です」と声を振り絞った姿は今でもはっきり覚えている。そのまま南部川村の実家に帰ると、家族は「幽霊が帰ってきた」と驚いた。一晩泊まっただけで、翌朝再び兵舎に戻った。

 終戦も茨城県で迎えた。「そりゃショックでしたよ。悔し涙を流したのはわたしだけではありませんでした」。終戦後は南部川村に戻り、炭焼きをするなどして生計を立て、昭和30年代には運送会社を設立。楠谷運送の社長として走り回り、いまは息子らに任せ、妻のミツエさん(85)と静かに幸せな毎日を送っている。 「戦争当時の話は、同じ思いをした人と出会ったときにするくらいで、家族にもほとんどしたことはありません。いまの若い人に言っても分からないでしょう。でも、多くの人の犠牲と苦労があったから、いまの日本があるということだけは知ってほしい」と穏やかに話した。