魚雷の構造を示す図面を描いて語る藪さん

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 「あと1カ月早く、実施部隊に入っていたら...」。日高川町中津川の藪藤雄さん(90)は、鹿児島県垂水の垂水海軍航空隊の普通科雷爆練習生だった。8カ月にわたり、航空魚雷の教育を受け、知識を頭に叩き込まれた。

 藪さんは、旧矢田村中津川の農家に生まれた。父熊太郎、母ハツヱの長男で、7人きょうだいの2番目。矢田尋常小学校を卒業後、昭和14年、15歳で家を出て、大阪市に住む叔父、留造さんの勧めで同市内の工作機械の製造会社に就職した。実家の家計の足しになればと考えたが、農業を継ぐのが嫌という思いもあった。そこでは旋盤や研磨機など製造しており、藪さんは製品に穴を空けたり、削ったりするのが仕事。翌年からは大阪摂津市の浪速工業高校(現在の星翔高校)に通いながら仕事に精を出すが、子どものころから機械好きだった藪さんには天職だった。対アメリカ戦が始まり、会社は戦いが激しくなるにつれ、次第に海軍の軍需品も製造。のちに藪さんが大きく関わっていくことになる航空魚雷のパーツも作り始めるようになる。

 19年11月、二十歳になっていた藪さんの元に軍から通知が届いた。工作機械の製造に携わっていたためか、入隊先は鹿児島県垂水市の垂水海軍航空隊雷爆練習生だった。数日後、大阪駅から汽車で鹿児島を目指し、船で山口県下関を離れたとき、「もう本州の地を踏むことはないかも知れない。生きては戻ってこれまいな」とあふれ出る涙が止まらなかった。

 航空隊は、戦闘が最も激しかった昭和19年2月、練習生の教育を目的に開設された組織。翌年8月15日の終戦で役割を終えるまで、雷爆練習生約800人、甲種飛行予科練習生約600人が卒業し、各戦線に送られた。雷爆練習生が整備教育を受ける魚雷は、航空機から海中に投下して敵艦を爆撃する兵器。全長5.27㍍、直径45㌢、重さは約1㌧あり、その名の通り魚に似た構造。海中深くに潜り込んだ魚雷は自動的に水深5㍍まで浮上し、海中を42ノット(77.8㌔)の猛スピードで進み、敵艦を狙う。射程距離は1.5㌔~2㌔を誇った。藪さんは、雷爆練習生の第37期生で、約20人の同期生とともに連日朝から晩まで厳しい訓練のかたわら、九一式という航空魚雷の整備教育を受けた。実践に基づいた科学的実証を経て開発された優れた兵器で、エンジンやスクリューをはじめ、魚雷が命中した際に炸薬に点火する起爆装置、水中でも水平を保つよう舵を動かせる震度計、「安定器」と呼ばれるロールの安定制御システム、圧縮した空気で燃料を燃やしてエンジンを動かしていることなど魚雷の構造や一連の動作、運動の理論や方程式など猛勉強の日々。少しでも気を抜くと、上官から厳しいゲキが飛び、気合いを注入されることもあった。勉強だけでなく、実際に魚雷を航空機に設置するなど実戦に向けての訓練も積んだ。そんな日々を過ごすなか、教育を終えた者が実施部隊として各戦線へ巣立っていった。

 実施部隊ではさらに高いレベルの教育を受けたあと、魚雷に関する任務を実践する。赴任先は激戦地だけに常に危険が伴う。20年6月、藪さんらより1つ上の第36期生が卒業した。誰一人、どこに赴任したかは分からないが、藪さんは多くは激戦地の南方方面や沖縄に送られたと考え、「次は自分の番。どこに行かされるのか」と刻一刻と迫る運命の日を待った。7月末、赴任地が決まる。激戦地を覚悟していたが、意外にも神奈川県横須賀の海軍航空の一大基地として機能していた田浦航空隊だった。

 汽車を乗り継ぎ、横須賀へ。航空隊を離れ、車窓越しに見た光景から、横須賀に配属された理由が分かった。辺り一面は空襲によって焼け野原。藪さんも実際、横須賀に向かう途中に空襲があり、危険な目に遭ったこともあった。「大本営からは真実が伝わってこなかっただけ。本土がこんなにやられていたらもうあかん」と敗戦を確信した。日本軍は戦況悪化の一途をたどり、このころ、すでにアメリカ軍に制空権が奪われ、もはや魚雷を放つ航空機に活躍の場はなかった。8月に入って横須賀の航空隊に合流したが、いつまでたっても命令はこない。10日ほど過ぎたころ、終戦を迎えた。

 戦後、長男の藪さんは故郷中津川で暮らすようになり、数年後、妻幸子さん(87)と結婚。2人の子どもに恵まれた。当時について「持って生まれた運命だったと思います。私ももう少し早く雷爆練習生になっていたらどうなっていたことか。南方で命を落としていたかも知れません。亡くなられた方のことを思うと胸が張り裂けます」。

 知識を頭に叩き込まれた魚雷は、70年近くたとうとしている現在でも鮮明に構造や機能など覚えており、図面をかくこともできる。「日本軍はすごいものをこしらえた。本当に精密な兵器で、驚くことばかり」と語り、「お国のためにとみんなが洗脳されていた。でも、戦争なんてかなわんし、本当のところは誰もやりたいとは思っていなかった。親兄弟に恥をかかせたくないという思いでやらざるを得なかった」と振り返る。

 「戦争ほど愚かなことはないが、家族や地域を思う気持ち、仲間意識やつながりの強さ、兄弟が多かったことが国を強くした」。今は自分中心、自分のことばかりの人が多い世の中。「少子化の問題はもとより、当時のような心、意識を持つことが必要だと思います」と現在の日本を憂えている。