まだ平穏だった満州で母スミさんと辻さん

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 満州開拓団として昭和16年春、父、母、兄と4人で南満州の鉄嶺縣新台子(てつれいけんしんだいし)の紀州開拓団に入植したとき、みなべ町南道の辻榮次郎さん(75)はまだ2歳だった。20年8月9日、ソ連が日ソ不可侵条約を破棄し、満州に侵攻してから事態は一変。6歳半にして経験した中国人の襲撃、草むらに横たわる無数の死体をかき分けての逃避行、ソ連兵による日本人銃殺、食べ物がない中での死にもの狂いの生活、21年6月の引き揚げまでの壮絶な10カ月間は幼な心にはっきりと刻まれた。

 新台子のはずれの紀州開拓団は和歌山出身の36軒が生活。広大な田畑で米や大豆、南瓜のほか、牛や豚、鶏の家畜と食糧に困ることはなく、父政吉さんが召集されてからも働き者で現地で表彰されたほどの母スミさん、3歳上の兄政一さんとの生活は比較的豊かで、平穏な毎日を過ごしていた。あの日までは。

 昭和20年8月11日、元気だった政一さんが病に倒れて急死。悲しみに暮れる中、その日のうちに葬式を終えた夜、現地の中国人集団の襲撃を受けた。隣の女性が「中国人が襲ってきた」と叫ぶ声に気づき、外を見るとクワやカマを持った数十人が取り囲もうとしていた。葬儀の用心棒として家に来てくれていた九州出身の日本兵が咄嗟に「ワラの中に隠しているものを取ってくれ」と叫び、さらしにまいていた牛刀をスミさんから受け取ると、猛然と中国人の集団に対抗していった。日本からもってきた掛け軸と掛け軸の裏に張っていた父の遺言書を手に着の身着のまま裏口から飛び出し、榮次郎さんはスミさんに背負われたまま集会所へ逃げ込んだ。家財道具をすべて盗られたが、幸いにして無事だった榮次郎さんらと同じように、集会所には逃げてきた50人以上が集まってきていた。団長である串本町大島出身の古田徳八さんの指揮の下、「もうここには居られない」と12日朝、新台子の市街地へ向かうことになった。

 ソ連兵らに見つからないよう、1㍍ほどの背丈があるすすきをかき分けて湿地帯を這うように進む逃避行が始まった。「進むとすぐに何かにぶつかるんです。たいがいは死体、戦車や墜落した飛行機の残骸もありましたね」。途中で橋が見えたが、古田団長から「あの橋を渡ると鉄砲で撃たれる」と聞かされ、川を渡ることになった。しかし、川幅はかなり広く、お年寄りと3歳以下の子供は連れて行けない。「○○ちゃんごめんね」と号泣し、我が子を草むらに置き去りにしなければならない女性たちの姿はいまでもはっきり覚えている。半数ほどに減った一団の中で、スミさんにおぶってもらった榮次郎さんは無事川を渡りきり、一晩を明かして翌日明け方に再び出発。2日かけて14日、新台子の市街地にたどり着いた。どうしていいか分からず、半日ほどうろうろしたあと駅に行くと、多くの人が集まっていて、なぜ乗ったのか、誰に乗せられたのかは覚えていないが、貨車の中に詰め込まれ、汽車は動き出した。

当時の写真を静かに見つめる辻さん

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 8月15日、途中の駅で止まったとき、古田団長が大事な放送があるらしいと聞きつけ、駅舎へ1人で向かった。しばらくして肩を落として戻ってくると、「日本は負けた」と告げた。この汽車はシベリアへ向かっていることも分かり、「奴隷としてシベリアへ送られている。このまま進むか、新台子へ戻るか、皆はどうだ」と意見を聞いてくれ、「奴隷は嫌だ、危険でも新台子へ戻る」との意見がまとまり、下車して南向きの汽車で新台子へ戻ってきた。「あのまま乗っていればシベリアに抑留され、どうなっていたか分からない。あの汽車にはほかにもたくさん人が乗っていた。あの人たちはその後、大変な苦労をしただろう」。古田団長の機転がターニングポイントになった。

 新台子へ戻っても住む家も食べ物も何もない。あまりの空腹とのどの渇きに榮次郎さんが道端に流れていた血だまりに手をやり、飲もうとした瞬間、スミさんに思いっきりぶたれ、「そんなん飲んだら病気になって死んでしまうで」とすごい剣幕で怒られた。その夜、スミさんの腕枕で寝るとき、「昼間は怒ってごめん。もし飲んでいたらこうして抱いてあげられやんねで」と抱きしめられた。「辛く苦しい毎日も母の愛情のおかげで生き延びられたのでしょう」。

 ソ連兵はとにかく恐ろしかった。盗みで捕まった日本人が見せしめのように壁に張り付けられ、銃殺される現場は何度も目の当たりにした。親しい人が銃殺されたときは、せめて弔ってあげたいと、リヤカーに乗せて公園へ運び埋めたこともある。もちろん、そんなことが見つかれば、自分たちも殺されるが「母はお世話になった人をそのまま放ってはおけなかったのでしょう。一緒にリヤカーを押しました」。ソ連兵は榮次郎さんら子どもを見つけては、「ママ? ママ?」と母親の居所を聞いてきた。見つけて乱暴するためだ。「そんなときは中国人のふりをして、適当な言葉でごまかしていました」。ある夜、ソ連兵が当時生活していた家に入ってきて、誰かが隠れているだろうとコタツに向けて銃を撃った。2人は息を潜めて逃げ、スミさんは窓ガラスを割って深く積もった雪に埋もれるように隠れて間一髪難を逃れたこともあった。

 古田団長の紹介で日本人社長の洋館でおばあさんの介抱をしていたときも、スミさんは顔に墨を塗り、ボロボロの服を着て一見、女性に見えないようにし、スノコ(床)の下に隠れて身を潜めていた。数カ月してソ連兵が引き揚げていってからは古田団長の紹介で中国人の医者の大きな水がめに水を汲んでくる仕事や、駅では古田団長が用意してくれた帽子や木彫りのえべっさんの売り子もした。かっぱらわれることもあったが、なんとか生き延びた。そして6月、いよいよ日本へ引き揚げのときが来た。港に集まった多くの人は栄養失調で、その場で死んでしまう人もいた。引き揚げの船でも故郷を目前に息を引き取っていった人もいる。榮次郎さんとスミさんは無事舞鶴の地を踏み、5年ぶりに日本に戻ることができた。

 「古田団長によくしてもらったり、中国人にも親切な人がいて、いろんな人に恵まれたから生きられたんだと思います」。父は満州の病院で39歳で亡くなった。栄養失調だったという。スミさんは平成6年1月23日、81歳で死去した。「満州と母の記憶はいつも心の中にあります」。榮次郎さんは時折涙を流し、静かに振り返った。