戦車隊の同期に司馬遼太郎

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 美浜町吉原に住む和歌山工業高等専門学校名誉教授幡川三夫さん(90)は昭和16年3月、旧制日高中学校(現日高高校)を卒業(第19期)し、東京の日本体育専門学校(現日体大)に進学した。剣道部の稽古に汗を流していたが、在学中に対米戦争が勃発、18年10月には東條内閣が在学徴集延期臨時特例を公布。理系と教員養成系を除く文科系学生の徴兵延期措置が撤廃され、和歌山に戻って母校日中の体育館で徴兵検査を受けた。

 結果は甲種合格。アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、中国国民政府の蒋介石が共同声明(カイロ宣言)を発表した4日後の12月1日、幡川さんは20歳で兵庫県小野市の加古川上流、青野ケ原の中部第49部隊(戦車第19連隊)に入営した。幡川さんといえば戦後、日高高校や御坊商工(現紀央館高校)、和高専で長年にわたり剣道を指導し、県剣道連盟副理事長も務めた剣道界の重鎮。日中時代から竹刀をとれば敵なしで、入営からすぐに加古川警察署で開かれた年始の剣道大会では、部隊を代表して出場し、団体戦と個人戦の両方で優勝した。賞品は当時「弾丸切手」と呼ばれた戦時郵便貯金切手と、下駄と洗濯板とタライ。「弾丸切手はいまでいうと、商品券のようなものでしょうか。下駄や洗濯板なんかは近所のおばさんに全部あげましたよ」と笑う。

 また、このときの部隊長は剣道が好きで、大会での活躍を聞いて幡川さんを連絡兵に指名。火災呼集訓練ではラッパを吹き、「火事だぁ、火事だぁ!」と兵舎内を走り回った。「部隊長の家にも行くんですが、玄関で優しい奥さんが一訓練生の私を『兵隊さん』といって迎えてくれましてね。部隊長も私を家にあげてくれて、料理をご馳走になりました。そのあとはいつも部隊長の車に便乗して部隊に戻るんですが、門番の衛兵が捧げ筒の姿勢で迎えてくれるのがうれしいやら、申し訳ないやら...。剣道が人より少し強かったおかげでした」と振り返る。

 戦車連隊とはいいながら、青野ケ原の演習場に戦車はほとんどなく、5カ月間の初年兵教育訓練は軍隊生活の絶対的な決まりや精神論が中心だった。同期には、のちに作家となる司馬遼太郎(本名福田定一)がおり、すでに亡くなった福田さんや他の同期生はすさまじい鉄拳制裁があったと語っているが、幡川さんは「もちろん、厳しさはありましたけど、私の場合は(日体大剣道部の)学生時代から慣れっこでしたから」と笑うだけで、軍を肯定、批判する言葉は何も出てこない。19年4月27日、幡川さんは福田さんら他の84人の学徒兵とともに、戦後はシベリア帰還者を舞鶴に運んだ大型連絡船興安丸で朝鮮の釜山へ渡り、軍用貨車に詰め込まれて満州の四平(しへい)陸軍戦車学校へ送られた。

 青野ケ原から四平の戦車学校を卒業し、ともに内地の栃木で終戦を迎えた幡川さんと福田さん。幡川さんは「福田君は小柄でメガネをかけて色が白く、目立たない存在でした。あの当時は俳句に凝ってたようで、戦車学校でも毎晩、寝る前に俳句を詠んでましたね。ある日、私が『なぜ、そんなに俳句ばかり詠むのか』と聞くと、彼は『長い文章を書くのが嫌いなんだ』と笑ってました。そのときは何も思いませんでしたけど、作家になってからの作品はどれも長くて...」と苦笑する。

 冬はマイナス30度にもなり、1時間かけて10㌢も掘れないというほど、硬い凍土に覆われる極寒の満州で8カ月間、戦車の操縦、射撃、無線通信などの訓練を受けた。19年12月に戦車学校を卒業すると、幡川さんは見習い士官となって、旧牡丹江省石頭の戦車第一連隊に配属された。終戦の年の20年になると、前線の島々は次々と敵の手に落ち、本土への攻撃が日増しに激化。満州に展開していた関東軍の精鋭部隊は南方、または本土決戦兵力に振り向けられ、幡川さんも3月に行き先を告げられぬまま転属命令を受けた。

戦後68年が過ぎたいまも日本軍の戦車の残骸が残る占守島

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 昭和20年3月末、転属命令を受けた幡川さんら戦車第一連隊は、釜山の港で夏用の軍服を渡された。「ということは、行き先は南方のフィリピンか沖縄か」。戦況も新たな任地も教えられぬまま、支給された軍服が夏用ということで、船の出港を待つ間、そんなうわさが駆け巡った。南方海域は軍艦だけでなく、民間の輸送船までもが敵魚雷の標的となっていたこのころ、アメリカ軍が新たに開始した大規模な機雷投下作戦により、釜山を出る船も航路をすべて絶たれていた。

 戦車第一連隊は仕方なく、汽車で朝鮮半島を北上し、ウラジオストック回りで本土の新潟へ上陸した。どこへ行くのか分からぬまま戦車を貨車に積み込み、福島県の会津若松まで来て食事をしていたとき、本土決戦に備えて栃木県へ移駐することを初めて聞かされた。4月上旬、幡川さんと同期の学徒出陣で、同じ戦車第一連隊に配属された福田(司馬遼太郎)さんは佐野町(現佐野市)の第5中隊の小隊長となり、幡川さんは隣町の小山町(おやままち=現小山市)の整備隊の一員となった。

 本土決戦となれば、関東ではアメリカ軍は茨城県から神奈川県にかけての鹿島灘、九十九里浜、相模灘あたりから上陸し、首都東京を目指すと考えられていた。その想定に基づき、幡川さんら整備隊は栃木から九十九里浜まで約100㌔の道のりを2日がかりで移動しながら、波打ち際に「蛸壺」と呼ばれる穴を掘り、その中に隠れて上を通り過ぎる敵を後ろから野砲と竹やりで襲うという訓練を繰り返していた。8月15日、いつものように訓練を終え、昼過ぎに街に戻ってくると、若い女性が浴衣を着て、日傘をさして歩くのどかな光景が目に入った。いつもと様子が違い、人々の表情にも笑顔が見える。知らぬ間に戦争が終わっていた。

 復員後、ふるさとの日高郡寒川村(現日高川町)に戻ったときはまだ日が高く、村の人たちに顔を見られるのがいやで、暗くなるまで山の中に隠れた。夜になって勝手口から家に入り、「帰りました」というと、両親と3人の妹が夕飯を食べていた。「戦争は正直、終わってよかったと思いましたけど、家に帰るのがつらかったですね。入隊のときは、それこそ『撃ちてしやまむ』とかいって、村の人が総出で見送ってくれたんです。それを思うと、生きて帰ってきたことが情けなくて」。そんな幡川さんの帰宅を、母だけが泣いて喜び、父はひとこと、「生きて帰ってきたのはけっこなもんや...」とつぶやいたという。

 しかし、戦車連隊の戦争はまだ終わっていなかった。四平戦車学校で幡川さんと同期の7人が送られていた千島列島最北端の占守島(しゅむしゅとう)で、終戦から3日後の18日未明、突如、ソ連軍が銃砲火とともになだれ込んできた。司馬遼太郎の回想録によると、戦車学校の校長代理だった連隊長の池田末男大佐は師団司令部に指示を仰ぎ、司令部も腰を抜かして大本営に電話をかけるが、すでに日本は連合国に降伏、戦車の砲弾はすべて地下に埋め、武装解除を受ける準備も整っていた。日ソ中立条約を一方的に破棄し、終戦の混乱に乗じた卑劣なソ連軍の侵攻に対し、池田大佐は反撃を決意。命令によって全車輌がエンジンをかけたが、池田大佐の車輌だけがなぜかエンジンがかからない。大佐は別の車輌に飛び乗って出発し、残された大佐の車輌の操縦士は全軍が出て行ったあと、戦車の中で拳銃自殺した。この戦いは3日間続き、日本側は圧倒的勝利を収めながらも、結果的には降伏させられ、捕虜となった兵士は何の根拠もなくシベリアに抑留された。池田大佐は戦死、幡川さんの同期も7人のうち5人が亡くなった。

 幡川さんは卆寿を迎え、この夏も愛犬美咲ちゃんとの散歩を楽しむ静かな日々。「終戦の日にとくに思うことはありませんが、年末になると、年賀状をやりとりしている戦友の家族から、喪中はがきが届くのがさみしいです」。これまでも自ら語ることはなかった69年前の悲劇。日本人は占守島という最果ての島で終戦後に戦いを強いられ、多くの兵士が命を落とし、領土を奪われたことを忘れてはならない。

 和20年8月15日の終戦からことしで69年。あの戦争が完全な「歴史」になろうとしているいま、当時を知る人にそれぞれの体験、思いを聞いた。