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昭和20年8月14日の大空襲などにより、煙突だけが残る大阪造兵廠と大阪城(昭和22年撮影・毎日新聞社)
 維新の十傑の1人、長州藩の兵学者大村益次郎の構想により、明治3年、大阪市の大阪城三の丸跡地(現在の大阪城ホール付近)に大日本帝国陸軍の兵器工場「大阪陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)」がつくられた。昭和20年の終戦前日、B291000機の猛爆を受けて壊滅するまで75年間、アジア最大の軍事工場として大口径火砲などの兵器を製造。戦争末期には最大6万4000人の工員が働いていた。
 御坊市薗、北新町に住む榎本武生さん(92)は旧制日高中学校(第13期)を卒業し、大阪の池田師範学校へ進学。昭和16年3月に卒業後は、布施市(現東大阪市)の布施第六国民学校(現菱屋西小学校)で4年生の担任をしていた。6月には徴兵検査のために帰郷、御坊小学校講堂で受検の結果、第三乙種で合格。しかし、戦争が始まってもなかなか召集されない。同僚が次々と召集で職場を離れるなか、自分だけが残っているようで、毎日肩身の狭い思いをしていた18年の冬、御坊の実家に陸軍の召集令状が届いた。
 12月1日、教育召集により高射砲兵(通信)として、 大阪市にある中部防空集団に入隊。西淀川の歌島公園にあった高射砲陣地に配属された。「当時、すでに兵隊を外地へ送る輸送船が敵の潜水艦に沈められてなかった。そのために私は内地へ残ったんだと思います」。掘っ立て小屋のような陣地には敵機を迎え撃つ8門の高射砲が据えられており、ここで有線通信、手旗信号、電線架設などの初年兵教育を受け、真冬の寒さのなか、神崎川の堤防を走らされた。
 3カ月の教育が終わると、新設の中隊へと配置換えとなり、城東線(現JR環状線)の鶴橋駅近くにある真田山公園の陣地へ。ここは目の前にある大阪造兵廠を守るのが任務で、大阪は19年春のこのころから、時々、空襲警報が発令されるようになった。20年に入ると戦局はますます悪化。とくに3月の大空襲はすさまじく、「この世のものとは思えないほどすごかった。まさに生き地獄で、復員してからもよくこの夢にうなされた」。前夜遅くには、敵の大編隊が太平洋の基地を発進したという情報を入手。夜明け前、B29が大阪上空に侵入し、造兵廠を標的に次々と1㌧爆弾を投下した。8門の高射砲は敵機に向け砲火を浴びせたが、煙のために空は夜のように暗く、雨と竜巻で視界がきかない。急いで電波探知機に切り替えたが、敵はアルミ箔を投下して電波を妨害したため、位置をつかめない。
 午後まで続いた空襲で造兵廠と大阪市街は壊滅的な打撃を受けた。中隊の兵舎は完全に焼失したが、奇跡的にも全員が無事だった。街をざっと見渡して、残っている建物は心斎橋の大丸、そごう、高島屋だけで、大阪城の天守閣は米軍が標的にしなかったせいか、まったく無傷だったという。
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「教員退職後は絵と畑、マジックを趣味の三本柱としてやってきました」と榎本さん
 榎本さんが配属された高射砲連隊は、戦時勤務で日曜の休日がなく、家族がいる人も多かったこともあり、月に1回程度、空襲時の戦闘に支障をきたさぬ範囲の人数で、48時間の外出が許可された。自由の少ない軍隊生活で、この外出は最も楽しく、待ち遠しかった。国民生活の食糧、物資の欠乏が日増しにその度合いを強めるなか、軍の食事はよい方で、たばこやお菓子、石けんなどが週に1回ぐらい支給された。榎本さんも仲間と同様、外出の際には支給されたたばこや石けんを内緒で家に持ち帰った。
 終戦間際まで続いた月に1回の外出。榎本さんは天王寺から汽車で実家に帰っていたが、戦局の悪化とともに御坊のまちも空襲を受けるようになり、帰ってくるたびに家族と家の無事に胸をなでおろした。つかの間の外出の解放感も、空襲の緊張感の方が大きくなりはじめていたころ、近くで小さな事件が起きた。
 夕食後、軍が接収して憲兵分隊の出張所となっていた家の向かいの託児所(元さざなみ保育所で現在は太陽福祉会通園みらい)から騒がしい声が聞こえてきた。外に出ると、十数人の近所の人が窓の外から憲兵隊の事務室を覗きこんでいる。顔見知りの人に聞くと、龍神村(現田辺市)の山中に墜落したB29の米兵数人が捕虜となり、ここで取り調べを受けているという。全員、目隠しされ、英語を話せる三尾村(現美浜町)出身の女性の通訳で事情を聞かれていた。そこへ突然、1人の老いた女性が「息子の仇とらいてくれ。わしにアメリカ兵を殴らいてくれ」とわめきながら現れた。息子が戦死でもしたのだろうか。女性の願いは聞き入れられなかった。翌朝、もう一度様子を見に行ったが、すでに捕虜たちは和歌山市へ移送されていた。取り調べは「憲兵が暴力をふるうようなことはいっさいなく、法規に従って粛々と尋問が行われていた」という。
 「今度帰ってくるときには、家はないかもわからん...」。戦争末期、外出許可で帰郷した際、父がいった。家から100㍍ほどしか離れていないところに、中型爆弾が投下された。幸い、実家は雨戸や障子の一部が破損した程度で済んだが、直撃した民家は吹っ飛び、周りの家も屋根がわらや窓ガラスが粉々になった。家の裏庭には防空壕が掘られ、ついに田舎の御坊も戦場となったことを痛感した。名屋の日ノ出紡績は日本アルミ御坊工場を経て三菱系の軍需工場となり、19年末からは日高地方もたびたびB29や艦載機による空襲があり、この工場や周辺の紀州鉄道日高川駅、源行寺などには爆弾が直撃。帰郷のたびに、一般市民が犠牲になったという話を耳にした。
 20年8月15日の玉音放送は、大阪の真田山公園の陣地で聞いた。ラジオは雑音が多く、何をいっているのか意味をよく理解できなかったが、天皇陛下の聖断により、日本政府が米英中ソの共同宣言(ポツダム宣言)を受け入れ、降伏することを知った。焼け野原となった街で、毎日何もせず、虚脱の状態が続いた。「アメリカ軍はわしら兵隊を去勢して、街の焼け跡を片づけるために働かせるらしい」などと、漠とした不安の中で流言飛語が飛び交った。
 戦争が終わったとき、榎本さんは内心、「やれやれ...」と思った。このような結果になることは、召集されたときからなんとなく予感していた。「高射砲部隊といっても、陣地に据えられているのは口径7㌢の旧式の野戦用ばかりで、1万㍍以上の上空を飛ぶB29には砲弾が届かないんです。実際、敵機に命中したことはありませんでした。戦争するにも兵器がないんです」。兵士に与えられた小銃も、明治時代の日露戦争後に採用され、中学校の軍事教練で使われていたサンパチ式(三八式歩兵銃)だった。
 復員後は日高地方の小中学校で教壇に立った。退職してからは洋画教室に通い、自宅の両側にある畑を耕しながら、人前で手品をする楽しさも覚えた。いまも高齢者が集う地域のサロン(御坊第一地区・庚申町集会所)に出かけ、仲間とともに練習した手品を披露している。
 ある日、畑で土をいじっていると、小さな子どもを連れた母親が「あれは空豆の花」「これはかぼちゃ」などと教えながら歩いていた。そのほほえましい親子の会話に、自分の畑が役立っているのがうれしかった。戦後67回目の8月15日がまもなくやってくる。「日中の同期生には外地へ出征、各地を転戦し、戦病死された方が多くいます。その方々のご冥福を祈る気持ちでいっぱいです」。晴耕雨読、平和と健康のありがたさを知る92歳は、きょうも静かに趣味の時間を過ごしている。