昭和18年2月、日本軍はガダルカナル島から撤退し、戦況は悪化の一途をたどった。以後、南太平洋の防衛線をめぐる日本軍と連合軍の攻防は激しさを増し、4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死したソロモン諸島ボーゲンビル島(ブーゲンビル島)周辺は、連日のように戦闘が繰り広げられる激戦地と化していった。
 みなべ町山内の中田武男さん(92)は、大正9年11月25日、和泉市で生まれたが、幼少の頃から山内の父の実家で過ごしていた。卒業後は農業や電気工事業を経て巡査(警察官)になったばかりの昭和15年、母校の南部尋常高等小学校講堂で徴兵検査を受け、第三乙種合格。大東亜戦争(太平洋戦争)が始まる2カ月ほど前の16年10月20日、奈良市高畑町にある陸軍歩兵第67連隊に入隊した。
 1年後の17年10月、上等兵となった。少年兵の教育係をしていたが、「御国のために散るのが日本男児」と当たり前に思っていたことから、中隊長に「戦地に行かせてください」と志願。18年6月、南海第4守備隊に転属となり、南方へ向かうため、7月7日、広島県の呉にほど近い宇品に到着。海軍第八艦隊の指揮下に入り、9日には軍用艦に乗り込んで出航した。
 一兵隊は当然、どれだけの規模の部隊がどこに向かうのかまったく知らされない。想像もつかないままの船出となった。当時、すでに制海権、制空権を失っており、敵の潜水艦がうごめく南方への出航は常に死と背中合わせ。日本の山々が見えなくなったとき、「もう帰ってくることはないだろう」と死を覚悟した。敵レーダーに見つからないよう蛇行を繰り返しながら半月後、日本軍の南太平洋の要所だったソロモン諸島ニューブリテン島北部のダボール(ラバウル)に奇跡的に到着。ダボールは当時、のちに戦犯として裁かれることになるが、捕虜に対する人道的な扱いや温情深い人柄で、国内はもとより外国からも名将といわれた今村均大将が第八方面軍司令官として指揮に当たっていた。中田さんは当時、見張りの兵士が早朝、農園を耕している老兵を見つけ、叱りつけてやろうと近づくと、それがなんと今村大将で、「老兵のしていることなので許してください」といったという逸話を聞いたことがある。
 最重要基地だったダボールは爆撃の標的で、中田さんが到着したとき、海岸には空爆を受けて無残な姿になった戦艦が何隻も横たわっていた。「大本営は勝っているの繰り返しで、出航したときも正直、日本は勝っていると思っていましたが、ダボールで目の当たりにした光景に、この戦は負けだと思ったのをはっきりと覚えています」。ダボールから駆逐艦「萩風」に乗り換え、7月23日、ニューブリテン島の南東に位置するボーゲンビル島南部のブインに到着する直前だった。「敵機だ!」。船団は連合軍の爆撃を受けた。甲板にいた中田さんは船内に入れず、影に隠れていたとき、B29の爆弾2発が船団の一つ水上機母艦「日進」に命中し、わずか5分で沈没。萩風はスピードが速く難を逃れたが、日進に乗り込んでいた陸海軍兵士1500人、1年分の燃料と食料が一瞬で海のもくずと消えた。爆撃が収まって仲間を助けに戻ったときに見た光景は、69年たったいまも脳裏に焼きついている。油に引火して海が燃え、たくさんの遺体に、辛くて言葉は出なかった。
 命からがらブインに上陸。上官から「近くの山の中に、山本元帥が撃たれて墜落した飛行機が落ちたままや」と聞かされた。激しいスコールのなか一夜を過ごし、翌朝、ボーゲンビル島からすぐ南にあるショートランド島北部の山崎橋という地区に上陸。中田さんはこのショートランド島で、想像を絶する飢餓や病気と闘いながら、2年近くを過ごすことになる。

昭和18年7月、南方への出航直前、記念に撮影した1枚。このころはまだ体重も60㌔以上あった
 ボーゲンビル島は第1次世界大戦後、オーストラリアが統治していたが、昭和17年3月、日本軍が占領。北端のブカ島や南端のブインに飛行場が整備され、ダボールからガダルカナル島を攻撃するための中間基地として重視された。ガ島での敗戦後、ボ島はダボールの孤立を目指す米軍の攻撃の的となり、18年11月、連合軍が西端のタロキナに上陸。終戦まで戦いは続いた。
 ブインの南に浮かぶショートランドは、島の多くがジャングル。第4守備隊第2中隊の中田さんは、この島と部隊を守るのが主な任務だった。射撃の腕を買われ、銃を手に見張りをすることも多かったが、敵機が射程距離に入っても実際に撃つことはなかった。撃つなと命令されていたからだ。「正直、撃ち落とす自信もありましたが、1機撃ち落とせば報復される。そうなれば部隊は壊滅してしまいます」。
 守備隊とはいえ、島では農園の開墾が重要な任務だった。シ島に上陸してから年内いっぱいはなんとか食料にありつけたが、19年になったころから食料不足は危機的な状態。当然、自給自足しなければ生きていけないが、砂地の多い島では思うように作物は育たなかった。夏ごろから最も長く滞在した最後の赴任地・コマレでは、飢えは想像を絶した。サゴヤシという木の中の綿を煮詰めるとデンプンが取れ、おかいさんのように炊いた一杯の重湯しか口にできない日が何日も続いた。海の魚を銃や手榴弾で仕留め、トカゲ、ヘビ、ネズミ、鳥...「食べられるものは人間以外なら何でも焼いて食べた」。ある日、2㍍ほどある大きな魚を撃って戻っていたとき、上官に魚を取り上げられた。その夜、少しぐらい食べさせてくれると思ったが、一切れも回ってこなかった。「それはもうはらわたが煮えくり返って、ほんまにやったろうと思って銃に弾を込めたんですが、味方同士殺し合っても仕方がないとこらえました。たかが魚と思われるかもしれませんが、食べ物を口にできるかどうかは、生きるか死ぬか。それほどに食べるものがなかった」。
 栄養失調とマラリアで仲間は次々と死んでいった。奈良での歩兵部隊時代からの戦友、日置川町の津村力男さんもその1人。「一番仲がよかった。部隊長に椰子の実を取ってあげた褒美に、内緒でサイダーと上等なタバコをもらったときも、津村君にタバコをあげた。戦友が死んでいくのを見るのは、耐え難いほど辛いものですよ」。20年1月になると、毎日のように死者が出たが、昼間に火葬すれば煙で敵に見つかってしまうため、 土葬で弔った。中田さん自身もマラリアで生死を何度もさまよった。極限状態の中、春ごろにはボーゲンビル島に戻ることになった。シ島に比べて土地が肥えているボ島はイモなどにありつけ、かろうじて飢えをしのげた。
 ボ島では、連合軍の手下となって手榴弾を投げ込んでくる原住民もいた。その原住民の集落を見つける斥候(せっこう・偵察の意味)の任務では、ピアノ線の先に爆発物を仕掛けた罠がないか、手探りでジャングルの中を先頭に立って歩いた。そのとき「中田危ない!」の叫び声と同時に銃声がした。後ろにいた味方が銃を持った敵を撃ち、間一髪命拾いした。
 8月、海軍はタロキナ討伐を19日に決行することを決め、中田さんが斥候に出ることになった。「今度ばかりは命はないだろう」、そう思って大隊長に斥候の申告をしたのが15日。すでに日本は軍の無条件降伏を受け入れていたが、部隊の動揺を避けるためか、中田さんらには知らされず、終戦を知ったのは翌16日。伝令の兵隊に教えられた。それでも半信半疑だったが、連合軍が飛行機からまいたビラを信じるしかなかった。
 捕虜として近くのファル島で豪州軍の監視下に入ったが、質素でも一日3度の食事が出され、兵隊はわざとパンを落としてくれたり、親切な人ばかり。労働もほとんどなく、シ島での日々に比べると、天国のようだった。体の弱い者から順に日本に戻り、中田さんは半年後の21年2月、最後の第4次引き揚げ隊として貨物船に乗り込んだ。2月25日、横須賀市の浦賀湾に到着。中田さんが所属した第2中隊120人のうち、生きて日本の土を踏んだのはわずか30人だった。「記憶にある限り、銃撃で死んだのは1人だけ。あとは全員栄養失調かマラリア、病苦による自殺でした」。宇品を出航したとき60㌔以上あった体重は、35㌔にも満たず、骨と皮の体は痛くて仰向けに寝られないほどだった。
 和歌山へ帰る汽車の中で若い女性に声をかけられた。「兵隊さん、たいへんな苦労をしてきてくれたんですね。失礼ですが、本当に生きていますか」。生きているのか分からないくらい痩せこけていた中田さんに、その女性は握り飯を1つくれた。「あのときのおにぎりの味はいまでも忘れられません。おいしくて、うれしくて涙が止まりませんでした」。
 山内に帰ってからも、月に1度は高熱にうなされた。戦場の光景を何度も夢で見た。毎日、日本のために散っていった戦友に感謝の気持ちを忘れず、毎年秋には供養を続けている。「なぜ生きて帰ってこれたのか? 精神力と、いろんな場面で上官や原住民に恵まれたこと、もともと貧しかったのもよかったのではないでしょうか」。
 終戦から67年、「戦争は絶対にしてはいけない。迷惑するのは国民、一番下の兵隊なんです。いまの子どもたちにネズミやトカゲを食べていたといっても、誰も信用しません。でもそれが現実で、戦争映画ではないんです。どんなことが起きても、戦争を避ける方法が必ずあるということを、声を大にしていいたい」。戦争資料を手に静かに語った。