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 「日本人はみんなみじめな思いをした...」。悲惨な戦場の記憶をたどり、のどの奥から言葉をしぼり出す塩田徳夫さんは、大正8年4月2日生まれの92歳。生まれ育った由良町衣奈では最近、1つ上の男性が亡くなり、地区内の男性では最高齢となった。父親の万蔵さんは小さいながらもイワシ漁の網元で、徳夫さんは村の尋常高等小学校を卒業したあと、網元の後継ぎとして海の仕事を手伝っていたが、昭和14年の20歳のとき、万蔵さんが病に倒れ急逝。徳夫さんはその後しばらくして徴兵検査に合格(第一乙種)し、アメリカとの大東亜戦争(太平洋戦争)が始まる前の15年4月、和歌山市砂山を衛戍地(えいじゅち)とする通称「ロクイチ」、陸軍歩兵第61連隊に入隊した。
 本来なら和歌山で初年兵の教育訓練を受け、3カ月後に信太山演習場(現駐屯地)で1期の検閲を受けるが、塩田さんら14年徴兵組はその検閲を受ける間もなく支那事変(日中戦争)の野戦部隊として戦地へ送られた。大阪南港から輸送船で北九州の門司港を経て上海に着き、長江をさかのぼって現在の湖北省にあった武漢三鎮(ぶかんさんちん=漢陽、漢口、武昌)に展開。16年9月からはさらに奥地の長沙で激しい戦闘となり、終戦時の陸軍大臣となる阿南惟幾中将の指揮下、苦戦の末に中国国民革命軍を打ち破った。
 長沙作戦に勝利したあと、大東亜戦争が始まる12月までは上海にいた。中国との戦いが泥沼化、大国アメリカとの決戦も目の前に迫ってきたなか、呉淞(ウースン)という川沿いの町で、来る日も来る日も敵前上陸の訓練ばかりやらされた。「毎日こんなことしながら、次はどこへ行くんかな」。開戦後、年が明けて17年2月に送り込まれたのは、アメリカの統治下にあった南方のフィリピン。本間雅晴中将が指揮する第14・16軍の増援部隊として、塩田さんら第61連隊はルソン島西部のリンガエン湾に上陸した。目指すは南のバターン半島沖合い、マニラ湾入り口の小島に築かれた、当時世界最強といわれたコレヒドール要塞。塩田さんらはマッカーサー率いるアメリカ極東陸軍を追い、半島を縦断する行軍が続いた。
 熱帯の密林で食糧、弾薬の補給がなく、仲間は次々と飢えとマラリアに倒れた。同期でともに上等兵となっていた大阪出身の草尾さんが力尽きたとき、戦友として内地の家族に遺骨を持ち帰ろうと、切断した腕を首からぶら下げて行軍した。夜になって荼毘に付したが、その後の混乱の中で遺骨は紛失してしまい、自身も目標のコレヒドール島まであとわずか、半島南部のマリベレス山のジャングルでマラリアにやられた。マニラ近くのケソンという町の病院に収容され、「毎日、マッチ棒ぐらいの太い針で、両足の付け根に塩酸キニーネ(抗マラリアの解熱剤)を打たれた。長沙でも行軍で落伍したことはなかったけど、41度の熱が続いたあのときは骨と皮までやせてしもて、ほんまに死ぬと思た」。
 その後、難攻不落のコレヒドール要塞は、第61連隊がほぼ全滅する激闘の末、日本軍が攻略。塩田さんは皮肉にも、九死の病のおかげで命を拾った。
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フィリピン戦線のバターン半島、コレヒドールの戦いで赫々たる戦果を挙げた歩兵第61連隊に所属した塩田さん
 バターン半島を制圧したあと、歩兵第61連隊は昭和17年4月から始まったコレヒドール要塞攻略作戦に師団の中核部隊として参加。日本側は7000人近い死傷者を出しながらも、5月6日、決死の夜間敵前上陸で第61連隊の2個大隊と戦車隊が島に取りつき、反撃に出るアメリカ・フィリピン軍を押し返して要塞を攻め落とした。マラリアに侵され、戦線から離れて病床で生死の淵をさまよっていた塩田徳夫さん(当時25歳)も無事回復し、10月には戦史に残る武勲をあげた仲間とともに凱旋帰還。まもなく除隊となった。
 ふるさとの日高郡衣奈村(現由良町衣奈)に戻ったものの、戦局は日増しに悪化し、年が明けて19年春には二度目の召集がかかり、原隊の第61連隊に復帰。そこでは自分が5年前に入営したとき、家業の網元を任せた3つ年下の弟千代一さん(22)もいて、兄弟が同じ中隊、同じ班に配属された。連隊は6月、援蒋ルート回復を目指すアメリカと中国、さらに植民地奪還をもくろむイギリスの猛烈な反撃にあっていたビルマ(現ミャンマー)に転戦。日本のインパール作戦の失敗が続くなか、敗走する友軍の最後尾で死闘を繰り広げたが、疲労と飢え、マラリア、赤痢で第61連隊は800人近い死者を出した。その中には、徳夫さんが和歌山で見送った弟、千代一さんも含まれていた。
 「千代一がビルマへ行くことが決まったとき、とくに言葉はかわさんかったし、何か書類を見たわけでもないけど、ワシと(ビルマ行きを)代わってくれたんやと思う...」。徳夫さんは大東亜戦争開戦前の中支戦線から危険な前線ばかり。フィリピンでマラリアにやられ、九死に一生を得て一度は除隊しながら、半年後には原隊復帰となった。生きて帰れる望みのないビルマ戦線部隊から外れたのは、「塩田家の家継ぎ(長男)を2回も危険な戦場へ送るわけにはいかない」という上層部の配慮があったのではないかと推測され、それ以上に千代一さんが自分の身代わりになってくれたという思いがいまも頭から離れない。
 同じ衣奈村の出で、千代一さんと同期入隊だった大井春一さんもビルマに送られ、戦死した。大井さんは徳夫さんと同じ長男、しかも中学出で下士官(軍曹)となっていたが、まだ小学生の小さな弟がいたため、「もし亡くなっても、跡取りがおるって判断されたんかもわからんなぁ」。兵隊の数は武器や馬と同じように、動員表に記載される数量でしかなく、赤紙郵送代の「一銭五厘」とまで命が軽んじられた時代。再び戦場へ行くつもりだった自分ではなく弟が送られ、逆に小さな弟がいる大井さんが前線に送られた運命に、「考えても仕方のないことやけど、自分がいまこうして生かされてるのは、やっぱり千代一のおかげやな」という。
 砲弾が飛び交い、水も食糧もなく、仲間が次々と倒れ、その死を悲しむことすらできない戦場。大陸では銃弾を浴びてのたうつ中国兵を腹ばいで乗り越え、最前線で真横にいた仲間は、敵陣を見るため立ち上がった瞬間に胸を撃ち抜かれて即死した。戦後66年が過ぎたいま、「何万人も死んだ戦場で死なずに済んだのは、幸運だったと思わざるを得ん。あんなアホなこと(戦争)は二度とやったらあかん」としみじみ、静かな日常の幸せをかみしめる。