高田貞楠さんが生みの親
日本一の梅の生産量を誇るみなべ町。2120㌶という広大な梅畑で生産され、農家だけでなく加工業者も多数、大きな雇用を生み、まさに町の経済をけん引する一大産業に発展している。原動力となっているのは全国的にも有名な高品質のブランド梅「南高梅」。登録されたのは1965年(昭和40)で、今年ちょうど60周年を迎えた。みなべ町を中心に周辺市町に大きな恩恵をもたらしている南高梅の歴史をたどると、たった一本、奇跡の梅の木から始まっている。
現在の南高梅の隆盛を語る上で欠かせない人物が2人いる。一人は高田貞楠さん、南高梅の生みの親だ。

南高梅はもともと、高田梅(たかだうめ)と呼ばれていた。高田さんは1885年(明治18)生まれ。1902年(明治35)、自身が所有する晩稲の桑畑を梅畑にしようと、近所の人から内中梅の苗60本を購入し、約30㌃の畑に植えた。その中の一本に、ひときわ実が豊かになり、大粒の実、美しい紅のかかる優良種があることを発見。これを母樹として大切に育てた。これが高田梅のルーツである。現在の南高梅はすべて、母樹の“子孫”になる。
当時、それぞれの農家は自慢の梅に苗字を取るなどして名前をつけていた。第一次世界大戦、日中戦争、先の大戦などの混乱期を経て、1950年(昭和25)、梅優良品種選定会が発足した。目的は、さまざまな品種で市場に出荷しても他県の良品との競争に負けるため、産地として良品種を統一すること。上南部村内の農家から、これはという良い梅を出品してもらい、5年間調査をして結論を出すことにし、選定委員長に南部高校教諭の竹中勝太郎氏が就任。同校園芸科の生徒が継続して調査した。
当初、37品種出品されたが、最終的には7系統に絞り、高田梅が最優秀に選ばれ、竹中氏によって「南高梅」と命名された。高田の高、調査に尽力した南部高校が南高(なんこう)と呼ばれていたことから名付けられた。竹中氏が農林省(現農林水産省)への名称登録を提案。65年10月29日付で「南高」と登録された。
高田梅は42年間、JAみなべ本所前に移設されていたが、5年前に生まれ故郷の高田家の畑に戻った。樹齢123年、現在も健在で、貞楠さんの孫で有限会社紀州高田果園代表の高田智史さん(68)が丁重に管理している。「歳を重ねるごとにルーツという重みが増し、母樹を継承していかなければという思いがますます強くなってきた。よりいい梅を作って南高梅のブランドを守っていきたい。それが産地を守っていくことにつながる」と話す。
もう一人欠かせないのが、小山貞一(ていいち)さん。高田さんが生みの親なら、小山さんは南高梅を産地全体に広めた育ての親だ。
産地に広げた小山貞一さん
小山さんは1909年(明治42)、筋に生まれた。幼少期から苦労人、戦時下の徴兵を経て南部川村の教育長も務めた人格者で、教育と南高梅の普及に生涯を捧げた。若かりしころ、当時の村長が「本村は貧村なり」と言っていた上南部村をなんとか豊かにしたいという小山さんの熱い思いが、現在の梅産地を築いたと言っても過言ではない。

31年(昭和6)7月、和歌山歩兵第六一連隊を満期除隊した日、小山家で祖先の法要があり、親戚から「貞、いい梅が欲しかったら晩稲の高田さんとこにある」と聞き、貞楠さんを訪ねて穂木(接ぎ木用に母樹から切り取った枝)を切望。当時、それぞれの農家で栽培していた梅は門外不出。当然、何度も断られたが諦めずに通い、その情熱が伝わり、貞楠さんから「それほど熱心だったらものになる。穂木やるから思い切り作れよ」と承諾してもらった。そのときの喜びを自身の著書に「天にものぼるうれしさだった」と記している。高田梅の原木から穂木を60本切らせてもらった。戦争、召集、また召集で本来の農業に集中できない時間を過ごしたが、1938年(昭和13)に生まれた長男利昭さん(87)が中学を卒業すると農業に従事。当時はまだ接ぎ木の技術を持った人は少なかったが、手先が器用だった利昭さんは貞一さんと一緒にたくさんの接ぎ木と育苗に没頭。数え切れない本数の優良な南高梅を生産していった。利昭さんによると、最初に南高梅の苗木を譲ったのは熱心な農家が多かった清川地区。だが、梅の実は思うようにならず、原因は南高梅が自家受粉できないことであると突き止めた。貞一さんと利昭さんは小粒だが実がよくなる「芳養早生」と南高梅を接いで育てるとよく実がなった。「小粒南高」の誕生である。小山父子は、交配樹として南高梅の畑に欠かせない小粒南高の生みの親でもある。いい梅を村全体に広めたい。貞一さんの「みんなのために」の思いから南高梅はどんどん広がり、いまでは日本一の産地に発展した。
利昭さんは「父は戦争で家を留守にしたときも、家族に『高田梅を大事にすること』と言っていたほど、家族のように愛情を注いでいた。自分のためではなく、みんなのためにという思いだったので、貞楠さんも穂木をくれたのでしょう」と推察する。貞一さんの三男で小山農園代表の豊宏さん(74)は「親父はいつも梅と話をしていた。肥料をやるときも幹をさすりながら『お前はよく実をならしてくれた。来年も頼むぞ』、別の樹には『今年はあかんかったけども、来年は頑張れ』って。少しでもいい梅を作りたいという思いにあふれていた」と振り返り、「梅はミカンのように糖度はいらない、摘果もいらないし、袋で実を包む必要もない。こんないい作物はない。南高梅が素晴らしい作物だということを、皆がもう一度感じてほしい。親父の南高梅に対する思い、姿勢の大切さをあらためて感じています」と話す。
貞一さんと親交があり、著書編さんの功労者でもある南紀梅干株式会社会長の細川行広さん(69)は「貞楠さんと貞一さん、この2人がいなかったらいまの日本一の産地は絶対になかった」と偉大な2人に敬意を払い、「南高梅は南部高校が作ったと思っている人がいる。大きな功労があったのは事実だが、そうではない。2人のおかげだということを引き継いでいかなければならない」。
貞一さんが晩年に残した言葉がある。豊宏さん、細川さんともこの言葉に梅づくりのすべてが詰まっていると話す。
「梅つくりの先生は梅の木自身にある。南高梅の性格を知りつくす勉強こそ私共の一生勉強だ。畑に一歩入れば経営主の人柄と、成・不成功がわかる。梅の心と経営者が一体になった時、人生最高の幸福が来る」。


