国内現役最古級トンネル
由良町阿戸地内と日高町池田地内を結ぶ県道御坊湯浅線上に、明治時代に造られたトンネルがある。由良洞隧道(ゆらどうずいどう)、通称・旧由良トンネルで、内部には当時のレンガ積みがそのまま残り、現役で使われているトンネルでは国内最古級とされている。

明治期、県道に指定された熊野街道は由良を経由せず、広川町から日高町へ抜けていた。しかし、道幅は約1・5㍍と狭く、途中の鹿ケ瀬山は急こう配で、人や牛馬の通行に大きな障害となっていた。こうした状況を改善するため、新たに開かれたのが由良洞隧道を通る「由良回り線」だ。
建設には囚人の労働力も動員されたと記録にあり、さらに地元住民が労働や寄付で協力するなど、地域の強い願いが込められていた。1887年(明治20)5月に起工し、89年(明治22)1月に竣工、3月に開通と、当時としては異例の早さで完成。全長約140㍍、幅3・3㍍、高さ3・35㍍のトンネルで、北・南両坑口はレンガの長手積み(長辺を見せて積む工法)、内部も両端部がレンガ積み、中央部は素掘り構造となっている。由良の人々の誘致活動により、従来の熊野街道と比べ格段に整備された近代的道路として注目を集めた。
しかし、由良回り線は水越峠や由良町周辺に急傾斜の難所があり、次第に通行を敬遠されるようになった。1906年(明治39)には原坂峠の鹿ケ瀬隧道を通る津木回りの道が開通し、由良回り線は約20年で交通の主役の座を譲ることとなった。
大正期に入ると、由良洞隧道は再び注目を集める。1919年(大正8)の道路法施行で「御坊由良線」として県道に再認定され、由良港への海上運搬路として御坊の企業などが利用したとみられる。しかし、65年(昭和40)に現在の国道42号が完成すると再び姿を消し、今では人通りもほとんどない廃道に近い形となっている。
歴史の息吹、坑内に宿し
国内現役最古級の由良洞隧道。池田方面から向かうと、道中は車同士の対向が困難なほど狭く、左は崖、右は崩れ落ちた斜面。落石が点在する危険な道を慎重に進むと、やがて隧道が姿を現した。
本来であれば、イギリス積みのレンガで組まれ、熊野信仰にちなんで鳥居の形を模した南坑門が迎えてくれるはずだが、いまはその姿を失っている。2022年の改修でコンクリートに覆われ、無機質な表情へと変わった。老朽化による崩落の危険を避けるためで、やむを得ない措置といえる。阿戸側の北坑門も昭和50年代に補強され、同様にコンクリートで固められている。

内部は側面と天井にレンガ積みが広がり、下部は素掘りの岩肌がむき出しのところもある。明治の空気をそのまま閉じ込めたような空間が続く。かつて石畳だった路面は舗装されているが、水たまりが多く、雨の後はかなりの水位になることもある。中央付近ではモルタルを吹きつけた岩肌に変わり、時代の移ろいが壁面に刻まれている。
近年は「旧由良トンネル」として心霊スポット扱いされ、動画投稿サイトなどで注目を集めている。中には有名心霊系ユーチューバーによる再生30万回超の動画もある。阿戸側の国道近くにある殉職警察官慰霊碑を“霊の根拠”とする配信もあるが、由良洞隧道とは無関係だ。
ただ、内部は真っ暗で岩肌が露出しており、構造上の“怖さ”は確かにある。国道が整備される以前の由良の子どもたちも、日高町へ抜けようとしたが恐怖に足をすくませ、引き返したという話が残っている。今回の取材の際は、内部を撮影中、全国で出没が相次ぐクマの方が気がかりだった。
一方で残念なのは、ところどころに描かれた落書き。明治のレンガにスプレーを走らせた跡が残り、心が痛む。かつて由良の人々が待望し、労力と寄付を惜しまず築き上げたこの隧道。現役最古級の歴史的構造物としての価値を知っていれば、このような行為には至らなかったはずだ。
管理する県は今後もこの区間を県道の一つとして維持していく方針で、定期的にパトロールを行いながら、安全を最優先に補修を続けていくという。
建設から130年以上。老朽化が進みながらも、明治の思いを今に伝える由良洞隧道。かつて行き交った人々の記憶を宿し、往来がすっかり絶えた今も静かに時代を見つめ続けている。


