日高の選抜出場に沸く

 和歌山の高校野球は長い歴史の中で全国屈指の強豪校を数多く輩出している。1915年(大正4)に第1回全国中等学校優勝野球大会が開かれて以降、24年(同13)から全国選抜大会が始まり、戦前の和歌山勢は26回開催された大会のうち優勝4回、準優勝2回という成績を残し、「野球王国」の名を全国にとどろかせた。

 日高地方では24年に日高、春が選抜高校野球大会、夏が全国高校野球選手権大会とあらためられた48年(昭和23)に南部、58年(同33)に御坊商工(現紀央館)、65年(昭和40)に和高専、84年(同59)に日高中津が創部。甲子園には56年(同31)、選抜大会で日高が初出場した。

56年(昭和31)、選抜大会初出場で初勝利を挙げ、整列して校歌を聞く日高ナイン(右から6人目が入江さん)

 その日高ナインの一人、当時新2年で中堅手の入江喜一さん(86)=美浜町和田=は、「出発するときは近所の人が見送ってくれ、御坊駅には垂れ幕があって、まるで出征兵士のようだった」と盛り上がりを覚えている。入江さんは「次の監督に(元プロの)長谷川(治)さんが来るから」と誘われて松洋中から入学。「『水を飲むな』と言われた時代。ノックばっかり3時間も4時間も、死ぬんちゃうかなと思った」と厳しかった練習を思い出す。一方、長谷川監督からボールの捕り方、投げ方、走り方、バットの握り方から道具の手入れまで、一から野球を教わったと振り返る。

 秋の近畿大会でベスト4入りし、選抜出場当確。周りが「甲子園へ行けるぞ」と騒いでいたが、当時はテレビもなく、どんなところかピンとこなかった。新聞記事によると、出発当日は打ち上げ花火を合図に御坊小学校で激励壮行会が開かれ、見送りに集まった千数百人の市民からは「日高高校万歳」の声。御坊駅では列車に乗り込んだナインが車窓に5色のテープを握り、日焼けした顔をほころばせていたとあり、入江さんも「えらいところへ行くんやな」と実感したという。

 甲子園では開会式でプラカードを見た観客から北海道の日高地方と間違われたり、日高の「日」が「目」に見えて「『めだか』ってどこ?」と言われたりしたが、滑川(富山)との1回戦は雨のため延長10回1―1の引き分け再試合となり、翌日は2―0で勝利。甲子園に校歌が「流れた」。入江さんによると、当時はうたわなかったそう。次の日の新聞では「地元御坊は歓喜のウズ」という見出しが躍り、この日、御坊市内の官公庁、商店街は開店休業。日高の勝利を知らせるサイレンが流れ、まちが拍手と歓声に包まれたと報じられている。次の2回戦は日大三(東京)の隠し玉に反撃の好機を失い、2―4で敗れたが、帰りに中華料理のフルコースを食べさせてくれた大阪のOB会からは「よくやってくれた。『日高』が世に出た」と感謝の声。北海道でも「めだか」でもなく、「和歌山の日高」の名を歴史に刻む快挙だった。

槙原倒して商工が8強

 1956年の日高の選抜出場以降、昭和年間で日高地方勢は、61年(昭和36)に御坊商工が春に、63年(同38)に南部が春夏連続で甲子園へ。81年(同56)に御坊商工が選抜、82年(同57)に南部が選手権、86年(同61)に御坊商工が選抜に出場した。なかでも御坊商工の81年春は、大会屈指の2投手を倒し、8強入り。その活躍は今も多くの人々の記憶に残っている。

 チームは夏の県大会2回戦敗退後、甲子園初出場時のOB、富村勲氏が監督に就任。県新人戦で初戦敗退し、秋季近畿1次予選からはい上がる。その年の春に選抜へ出場した新宮を下すと、2次予選では初戦で箕島に1―0でサヨナラ勝ちし、勢いに乗って優勝。近畿大会ベスト4で20年ぶり2回目の選抜出場を決めた。吉報にはナインが富村監督を胴上げして喜び爆発。御坊市内が歓喜に沸いた。

81年( 昭和56 )、20年ぶり2回目の選抜大会開会式で校旗を手に行進する羽佐主将ら御坊商工ナイン

 甲子園では初戦、後にプロ入りする左腕古溝克之投手の福島商(福島)を2―1で下して初勝利。4回1死一、三塁から6番羽佐がスクイズをファウルするも、粘って三遊間を破る会心の決勝打を放った。2回戦では雨で泥まみれの中、剛腕の槙原寛己投手を攻略し、大府(愛知)を4―0で撃破。8安打を浴びせ、エースの薮が完封した。準々決勝で上宮(大阪)に0―4で敗退も堂々のベスト8。高野連に厳重注意されたチームが出るなか、選手控え通路できちんと椅子に腰をかけて待機、グラウンドに出るときには椅子を直し、キビキビとしたプレーを見せて、報道陣に「最も好感の持てるチーム」と評判にもなった。

 後に巨人で活躍、「ミスター・パーフェクト」と称される槙原投手を打ち崩し、秋以降負けなしの大府に土をつけた御坊商工。当時主将の羽佐吉史さん(61)=御坊市島=は「大府はちょうど甲子園練習が前後で、槙原はめちゃくちゃ速かったのを覚えています。おまけにバッターはバックスクリーンに放り込んでいました。商工はチーム打率が出場チームの中で下から数えた方が早く、開会式でPL学園の選手に『おまえらのバットええ音するけどボールは全然飛べへんな』と言われたほど。勝てることはないし負けるに決まっていると思っていたのですが、点が取れて『もしかしたら、いけるんちゃうか』と、そのまま波に乗っての勝利でした」と振り返り、「上宮に負けた後、監督が『1泊するか』と言ったのですが、その日の深夜に帰ってきました。次の日が休みでその次の日は始業式。『あのとき1日しか休みなかっとな』というのは今でも笑い話です。全ていい思い出」と笑顔を見せる。

 時代が平成になってからは、89年(平成元)に日高、92年(同4)に日高と南部、93年(同5)に南部が選抜に出場。97年(同9)春には日高中津が分校として初めて甲子園の土を踏んだ。南部の2001年(同13)春以降、日高地方勢は甲子園から遠ざかっているが、今も各校のグラウンドには昔と変わらず夢の舞台を目指して練習に励む球児の姿がある。入江さんも羽佐さんも「野球でできた仲間は宝物」と笑顔を見せ、入江さんは「野球を通じて得たものが人生のどこかで生かされる。それを一生の宝にしてほしい」、羽佐さんは「野球はやってみないと分からないのが面白さの一つ。努力した分、自信がつく。甲子園出場へ頑張ってほしい」とエールを送っている。